コポ…、コポ…
……コポ、コポ…、
少しずつ、静かに上昇していく気泡が見える。
気泡は半透明の膜に触れるとゆらゆらとためらうように少しとどまり、やがて膜の外へ吸いとられるように出て行く。
ポッドを取り巻く世界は、薄く発光したような緑色に満ちている。
波がゆりかごのようにポッドを揺らす中、まどろみの檻に囚われる者がいた。
彼は夢を見ていた。
あたりは見渡すかぎりの草原だった。
どちらを向いても遥か彼方まで真っ平らな、丸く切り取られた世界だった。
頭上には真っ青な空がドームの形に広がり、黄金の光が輝いていた。
光はあたり一面を優しく照らし、彼の肌をふんわりと暖めていた。
彼は光を目指して歩いた。
まるで蜃気楼を追うかのように、その光は歩いても歩いてもいっこうに近くならなかった。
───ここはどこ?
───いつからここにいる?
足元には小川が流れていた。
時おりさざめき、きらきらと光を反射する。
彼は小川のそばにひざまずき、手で水をすくってみた。
水は彼の手を厭うように、指の間をするりと抜けていく。
流れを目で追うと、そこには黒い深淵があった。
ずっとずっと奥深い淀みの、はるか奥底に金色の光が揺らめいていた。
黄金の光の源はここにあったのかと安堵し、彼は屈んで手を伸ばす。
だが、どうしてだか、彼の手はその深みの中に入っていくことができない。
彼の手も足も、水面から数十センチのところで止まってしまう。
夢はいつも唐突に暗転し、深い眠りへと突き落とされる。
どこからともなく大量に流れ込んでくる知識と思念の奔流のなかで、彼はなすすべもなく身体を丸めてうずくまる。
誰が見せるのか、いくつもの記憶の断片がフラッシュし、次々と新たな断片が降り注ぐ。
意識の中に直接流れ込み続ける、そのすべてを彼は受け入れる。
───なんのために?
───いつまで?
膨大な知識が押し寄せてきても、彼は己の疑問に答えることは出来ない。
このまま、永遠に浅い眠りと深い眠りを繰り返し続けるのだろうか。
長い、長い時間をここで過ごしたこと。
その事実以外に、彼自身のものだと確信できる記憶などなにもない。
ただひとつ、無意識の海からぽっかりと浮かび上がってきたような、あいまいなイメージを除いて。
それは輝く“光”の記憶。
見つめているだけで温かな波動で彼を満たす金色の“光”。
どんな夢の中にも必ずそれは現れた。ある時は中空にあり、またある時は深淵の中にある。
それは、いつも彼のものであり、同時にいっかな手にすることの叶わぬものであった。
金色の“光”のことを思うとき、懐かしさと愛しさと、そして言いようの無い喪失感が押し寄せる。
───あの“光”を我がものとしたい。
この乾きにも似た望みを抱く存在、それこそがまぎれもない彼自身だった。そのことによってのみ、彼は自分自身を保っていられるのかもしれない。
それなのに……。
“光”はしだいに遠のいていた。
彼の夢の世界を包み込むように満ちあふれていた光は、徐々に弱まっていた。
いまでは青空の向こう側の遥か彼方で、小さなきらめきを見せている。
───このままでは“光”を失ってしまう!
“光”への希求が強く激しく、己の身体を内側から突き破って、爆発しそうになる。息苦しいほどに鼓動が早い。
彼は夢の中で再び白い花の咲く野原を歩いていた。
そして、小川の水底に細い亀裂を見つけた。
彼の心の拍動に呼応するかのように、その亀裂は息づいていた。
彼はそっと指先を亀裂に滑り込ませる。
天空を見上げると、色浅い青空にも同じように亀裂が走っていた。
一気に力を込め、亀裂を押し広げた。
『……セ……… 来て……早く………!』
頭の中に雷鳴のようにとどろいたその声は彼の全てを捕らえた。
身体の中に閉じ込められていたエネルギーが、その流れ出る場所をみつけ、激流となってほとばしる。
彼の視界を遮っていたポッドの薄いフードに亀裂が入った。
鮮やかに発光する緑色の流れが、目の前に押し寄せてくる。
……苦しい。
見上げた視線の先に、遠くきらめくのはほのかな“光”。
“光”に向かって、暗い淀みに身を躍らせる。
早く、“光”のもとへ──────!
◇◇◇
水を蹴っていた足がガツンと砂地をとらえ、上半身が一気に水面から出た。ヒュッと音を立てて、冷たい空気が体内に入り、痛みを伴う刺激に激しく咳き込む。顔を上げて見回すと、あたりは仄暗く、静かに波が打ち寄せる砂浜とそれに続く丘が見える。
振り返れば遠くの水平線がほのかに赤く色づいている。呼吸が整うのを待って左右の足を交互に動かし、重い海水をかき分けて砂浜にたどり着いた。
乾いた砂地に素足がめり込み、きしきしと音を立てている。
ほどなく見つけた岩棚に腰を下ろして、ゆっくりと海のかなたを見わたした。
まだ、朝の陽の光は弱く、黒々とした海面が静かなうねりを繰り返している。
膝の上に置いた己の手のひらと、ぼろくずのような布に包まれた身体を見る。知識としての“ヒト”のあり方と、自分の置かれていた境遇の差に驚きを禁じ得なかった。
───この黒々とした海の中で緑色の光に包まれて、いったいどれほどの長い時を過ごしていたのか。そしてなぜ、私は海中のポッドの中にいたのか? ヒトと は大地を踏みしめ、呼吸をし、生き物の命をその糧にして生きていくものではなかったか……。
陽が高くなり、銀糸のような長い髪から滴っていた水分がすっかり乾いて、潮風になぶられるようになっても、ただじっと海を見つめて考えていた。
───私はいったい、何者なのだ? 私を呼んだあの“光”は……。
岩棚の後ろに一本だけ立っていた木が、足もとの砂に濃い影を落としていた。強い陽射しに追われるように、彼はようやく立ち上がった。
大きく深呼吸をした。ざわざわと全身の細胞が活力を得たかのように身体が軽く感じられ、自分がこの大地の上に生きているのだと実感する。
そして、乾いた砂の上にヒトとしての一歩をざくりと踏み出した。
海岸から少し見上げる小高い丘の上に、素っ気ない真四角の建物が見えていた。
その横には大きなガスタンクのような球状の設備があり、そこから海中へと数本のパイプラインが延びている。周辺にはいくつかの民家もあるようだ。
そこまで見て、建物の傍らから静かに自分を見つめている一匹の赤い獣に気がついた。前足に顎をのせた体勢で、歩き始めた彼に合わせて顔を上げ、片方だけしかない瞳でこちらを追いかけてくる。
───あれは、この星で一番長命な種族だな。
こちらからも見つめていると、獣は四つ足で立ち上がり、背後の森へと姿を消した。誘われるように丘を登り、施設の敷地に足を踏み入れた。
もともとわずかな建物しか無かったらしいそのあたりは、人の気配が絶えて久しい廃村のようだった。最初に見えた四角い建物以外は木造で、そのほとんどが 壊れてしまっている。壊れたドアを押しあけて、いくつかの家をのぞき込むが、人間はおろか、小動物の気配すら無い。
高さ5メートルほどの球状のタンクを回り込んで、コンクリートで頑丈そうに造られた建物に入った。どうやら何かの研究施設だったらしい。壁面いっぱいに数々の制御盤やモニター類、計測器のような機器とコンピューターが配置されている。
何もかもが砂埃をかぶっている。
部屋の中央にある大きなテーブルの上に、ジュラルミンのケースがあり、そこにメモが貼付けてあるのが目に入った。紙はまだ新しい。
セフィロスへ
右端のコンピューターを起動して、
プログラム《hojo》を実行のこと。
虹彩と右手毛細血管による生体認証が必要。
───セフィロス! そう、そうだ。これは俺の名前だ。
そう感じたとたん、自分に「セフィロス」と呼びかける様々な声の記憶が押し寄せて来た。動悸が激しくなる。その呼び声に含まれる、冷たさ、恐怖、蔑み、 哀れみ、拒絶などの暗い思念を感じるのだ。思わず床に手をつき、静かに耳を澄ます。そのたくさんの声の中に、小さくともはっきりと、澄んだ美しい呼び声を 聞き分けることができた。
『セフィロス……。早く、来て……。』
───そう、この声が俺を長いまどろみから目覚めさせたのだ。この声の正体が知りたい。
一刻も早く行かなければ!
でも……。
どこへ?