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第一章 長き眠りの果てに

五章 魔晄の泉(3)

  セフィロスは自分の視覚がとらえたものの意味を理解することができないまま、呆然と立ち尽くしていた。受け入れがたい光景を目前にして、五感が伝えてくる情報は彼の情動を素通りしていった。石のように固まったままでいた時間は、1分だったのだろうか、1時間だったのだろうか。
  その広い空間には、魔晄の泉があった。
  円形劇場のように階段状に落ち込んだ岩盤の底から、淡い燐光を発する魔晄が静かに湧き出ている。地上の空気に触れた魔晄はいくらか安定性を失い、液体と気体の間を行ったり来たりしながら、洞窟の奥まったところにある亀裂の中に流れ込んでいた。
  窪みの中程までひたひたと押し寄せる泉には、小島のように突き出した岩の台座があり、その上に薄緑色の燐光を放つ巨大な結晶が屹立していた。
  泉の対岸には何体ものニブルウルフが鋭い目をぎらつかせていた。再びセフィロスを狙って来たものか、潤沢な魔晄そのもの、あるいは結晶の中の存在に惹かれたのか。

 (クラウド───)

  探し求めてきたものは、そこにあった。セフィロスが予想もしなかった形で、目の前に現れた。
 ───クラウドはその結晶の中にいた。
  高い天井に開いた天窓のような穴から差し込む陽光に照らされて結晶はキラキラと煌めいていた。クラウドは目を閉じて、両腕を肘でかるく折り曲げ、拳をウエストの横に溜めている。
 (これは……、魔力の発動に集中するときのクラウドの型だ)
  魔法を発動する途中の、きわめて動的な体勢をとっていながら、精気の欠片も感じさせない彫像のような印象は魔晄の色を映す冷たい肌の色合いのせいなのだろうか。

  結晶の中のクラウドを中心にして、この円形劇場にはおびただしい魔力と魔晄の力が渦巻いていた。泉の表面で気化する魔晄がユラユラと立ちのぼるなかに、実体のはっきりしない何かが浮かんでいた。それらは蜃気楼のように揺らめき、影とも光ともつかない曖昧さで、クラウドを取り囲んでいた。
 (……召還獣?)
  美しい羽を広げた鳥。刀とウータイ風の装束を身に着け、犬を従えた人影。大地に手を付き結晶を睨み上げる巨人……。そして、後頭部の高い位置で髪を結わえ祈るような姿の女性。
  輪郭がはっきりしないうえ、セフィロスの知らない外見をしたものがほとんどだ。
  どういうわけなのか、ライフストリームの中から魔晄が抽出されて中央の結晶に流れ込んでいた。いや、結晶が更なる魔晄を凝縮して成長を続けているのだろうか?
  加えて、結晶の周囲を取り巻く召還獣の蜃気楼が膨大な魔力をクラウドに注ぎ込んでいる。一人の人間が受け取るには大きすぎる魔晄エネルギーと魔力はクラウドの身体を媒介して練り合わされ、新たな形をとって再びライフストリームへと流れ出していた。

 (これが……、もしや、これが、巨大障壁の源なのか……?)
  止まっていた思考が、ドクンとつよい拍動とともに息を吹き返し、激しい血流がセフィロスの体内を駆け巡った。
  セフィロスはゆっくりと、足を前に踏み出した。
 (なんという……、なんということだ!)
  まずは、飛びかからんばかりに牙をむき出し、涎を垂らすニブルウルフを片付けねばならなかった。ここには潤沢な魔晄エネルギーがある。セフィロスは心の中に炎のイメージを作り上げ、左手に集中した。
 (濃いな…)
  セフィロスの左手には恐ろしいほどの魔晄エネルギーが集中していた。肩の付け根まで痺れ上がるほどのエネルギーに驚いて、一瞬目の前のモンスターから意識を逸らしたとき、近くにいた2体のニブルウルフがセフィロスに挑みかかってきた。
  とっさに大きく左手を掲げ、炎の魔法を発動する。
 (なに!?)
  ドーム状の広い空間が瞬時に劫火に包まれた。意図したレベルをはるかに超える強さだった。
 (制御できなかった……)
  岩盤は黒くくすぶり、泉の中の魔晄は干上がっていた。
  十数体いたモンスターはすべて黒い炭の塊と化していた。洞窟内に充満した煙が天井に開いた穴から少しずつ抜けていき、視界が元に戻る。
  魔晄が干上がってしまったせいか、周囲を取り巻いていた召還獣の蜃気楼は姿を消していた。濃厚に渦巻いていた魔晄エネルギーと魔力の気配も消え、広い空洞内はシンと静まりかえっていた。台座のすぐそばにあった石灰岩の割れ目から、新たな魔晄がふつふつと湧き出していた。

  洞窟中央にスラリと立つ結晶には融けもせず、傷つきもしてはいなかった。クラウドはまったく変わらぬ姿でその中にとどまっていた。

  そのとき背後でバタバタと何人もの足音が駆けてくるのが聞こえた。
 「セフィロス!ここなのか?」
  ナナキがセフィロスの足元にスライドするように滑り込んできて踏みとどまり、「あっ!」と衝撃を隠せない声をあげた。
  続いて駆け込んできたのは二人の青年だ。汗を滴らせて肩で息をしているが、クラウドの姿を確認するなり、ナナキとともに段差を駆け下り結晶に縋り付いた。
 「「「クラウド!!」」」
  レニーとエルヴィンの二人は結晶を手のひらで、拳で激しく叩きながら、大きな声でクラウドを呼んだ。ナナキは前足の鋭い爪で、結晶の表面をガリガリと掻きむしったり、噛み付いたりしたあと、「オォ〜〜〜ン」と切ない遠吠えを上げた。
 「クラウド!」
 「ああ!どうしてこんなでっかいマテリアの中に!」
  だが、クラウドが目覚める様子は無い。
 「なんて硬さだ!それに、すごく冷たいよ。レニー、早くクラウドをここから出さないと……」
 「………下がっていろ、エル」
  レニーはホルスターから拳銃を取り出し、結晶と石灰岩の境目を狙って弾丸を撃ち込んだ。
  バーンと高い銃声が洞窟内にこだまし、バラバラと石灰岩の欠片がライフストリームの中に落ちていく。それでもやはり、結晶には傷ひとつ付かなかった。

  セフィロスはゆっくりと窪みをおり、クラウドを包む結晶に近づいた。
  セフィロスは目の前の光景にそっくりなものを知っていた。北の大空洞で甦った記憶の断片の中で、自分もやはり同じような巨大マテリアの中で眠っていた。そこに黒マテリアを持ったクラウドの手が近づくと、結晶は緩やかに融け、クラウドの手を受け入れた。
  あのときのクラウドが、ジェノバの暗示に操られてセフィロスのもとに来たにせよ、この空恐ろしいほどの相似形が、何か得体の知れないものの企みであるかもしれないにせよ───。

 (クラウド、目を覚ませ)

  セフィロスは胸に下げていたクラウドの天然マテリアを手に取ると、静かに結晶に手を触れた。手のひらがじんわりと暖かい熱を感じ取ると、青い天然マテリアが淡い光を発して輝き始めた。
  二人の青年が見守る前で、ゆるりとセフィロスの手が結晶の中に吸い込まれていく。何をしても傷つかない硬度を持った結晶が、セフィロスの手の周囲から緩やかに融けていく。
  硬く握りしめていたクラウドの拳をセフィロスの手がしっかりと包み込んだ。セフィロスの手から熱が伝わっていくようにクラウドの周りを次々に溶かしていく。
  ピクリと腕がが動き、身じろぐような動作を見せたあと、クラウドは滑らかにうねる魔晄のゾルの中でゆっくりとまぶたを開いた。

 「クラウド」

  セフィロスがそっと声をかける。
  遠くを見つめるように虚ろに開かれた瞳が、再びそっと閉じられ、クラウドは唇をほころばせて夢見るような微笑みを浮かべた。セフィロスの手のひらに包まれたクラウドの拳から力が抜けていく。
  結晶は二人の繋いだ手の部分から、どんどん緩み、固体から一瞬液体になるや、たちまち小さな粒子になって空気中に霧散していった。
  支えを失ったクラウドの身体が崩れ落ちるように前に倒れかかるのを、セフィロスの長い腕が抱きとめた。
  ずしりとした身体の重みを両腕で受け止める。
  この重みを感じるために、ここまで来た。長い長い眠りの時も、ずっとこの時を夢見ていた。
  輝く金色の光は手の中にある───。

  クラウドの長く伸びた髪から、残っていた魔晄がふわふわと漂い出て本来の美しい金色を取り戻していった。
  セフィロスは、ともすれば震えてしまいそうになる手でそっと前髪をかき上げた。するすると柔らかく指の間を通っていく髪がかすかな抵抗を指の間に残す懐かしい感触に陶然とする。そのまま耳の横を通って血の気の失せた頬に手を滑らせた。見た目通りのひんやりとした冷たさが手のひらから伝わってくる。
  閉じられたまぶたに浮かぶ薄い静脈。
  かすかに震える睫毛の翳り。
  雪花石膏のような喉元。
  緩やかに上下する胸。

 (本当に、100年もの歳月が流れたのだろうか───)

  薄く開いた青ざめた唇からひとつ、吐息が漏れるのを聴いて、セフィロスはこれが夢ではないことをようやく実感した。冷えた身体をかき抱く腕に少し力を入れたところで、クラウドのまぶたがピクリと震えた。
  ゆっくりとまぶたが引き上げらる。長い睫毛が落とす濃い翳りの下に、さらに色濃く広がる隈に縁取られた二粒の宝石が現れた。セフィロスのもつ天然マテリアと同じ色をした瞳に力はなく、凄まじい体力の消耗を示していた。
  青い瞳は目の前になだれ落ちる銀髪を捉え、ゆっくりと遡り、やがてセフィロスの瞳にぶつかった。

 「セフィロス……」

  心臓がギリギリと締め上げられるように痛んだ。
  自分の役割は、おそらくクラウドをこの結晶の中から救い出すこと。自分が100年の時を経て甦ったのは、クラウドをこの結晶の檻から解放するためだけだったとしても、それでいい。クラウドをあの中から救い出す───それは自分にしかできないことだったのだろう。3度目の命の理由は、それだけで十分だった。
  だが、こうしてクラウドが目を覚ましてしまった以上、自分たちは本来の立場───仇敵同士の間柄に戻らねばならない。ミディールの海岸で目覚めて以来得てきた知識と、辛うじて取り戻した過去の記憶は、それをどのようにつなぎ合わせたとしても、もうかつての幸せな時代に戻ることは不可能だと示していた。自分とクラウドとの関係は、もはや修復不可能なものなのだ。

 

  大空洞の中で確かに理解したクラウドへの憎悪と殺意───。
  いま、腕の中にいるクラウドに対して感じるのは、深い愛情と慈しみの心だけ───。
  それでも───。

 「来てくれた……」

  クラウドの囁くような声に、セフィロスは深く頷き返した。
  耳をくすぐるような掠れた声のなかに、かつての愛情の残滓を見つけたような気がして、セフィロスは不覚にも目の前が涙の膜で曇るのを感じた。

 「クラウド……、どうして……、こんなことに…」

  クラウドはゆるゆると首を左右に振った。何か言おうとして唇を開くが、言葉が続かないようだった。本当に消耗しているのだ。無理もない、ずいぶん長い間あの結晶の中に閉じ込められ、魔晄エネルギーと魔力の循環するまっただ中に置かれていたのだ。
  セフィロスは、がっちりとクラウドの頭を深く胸に抱き込みたいのをどうにかこらえた。壊れ物を扱うように、そっと身体の向きを変えてやる。 
  

 「セフィロスさん」
  突然現実にひきもどされたセフィロスは驚いて声の主を振り仰いだ。遠慮がちにかかった声は、エルヴィンと呼ばれていた青年のものだった。
 「あまり長時間その中にいるのは、身体によくありません。クラウドと一緒にこっちへ」
  足元を見ると、すでにくるぶしあたりまで湧き出した魔晄に浸かっていた。エルヴィンのいう通りだ。セフィロスはクラウドを横抱きにしたまま、階段状の段差を上がって泉の外へ出た。
 「意識はあるようですね」
  長身のレニーがクラウドの顔を上から覗き込んだ。クラウドは再びまぶたを閉じ、静かな呼吸を繰り返していた。
 「眠ってしまった……」
 「安心したのかも…。あなたに会えたから」
  セフィロスは眉をひそめた。エルヴィンは、セフィロスの顔を見上げて微笑んだ。
 「僕たち、クラウドから聞かされてました。あなたのこと」
  セフィロスはハッと胸を突かれた。レニーもすぐ横で頷いた。
 「お名前までは……知りませんでしたけど。ここへ来る途中、ナナキから話を聞いてもしやと思っていたんです。……ひと目見てすぐにわかりましたよ。あなたが、クラウドが話していたその人だって」
  セフィロスは無防備に目を閉じて眠るクラウドの顔を見下ろした。
 「どんな話を聞いているか、気になるでしょうけど……。とにかくクラウドを早く医療設備の整ったところへ運ばないといけませんね」
  もちろん、セフィロスに否は無かった。

  円形広場の入り口で成り行きを見守っていたヴィンセントが、先ほどから慌ただしく洞穴の通路を往復していた。セフィロスたちがクラウドに意識を集中していたとき、ヴィンセントとナナキは洞窟の周辺に近づいてくる何者かの殺気を感じ取っていた。
 「ナナキ、感じているか?」
 「うん。なにか……来るよ」
  ナナキがブルッと胴震いを見せた。ヴィンセントもあたりの気配を探るように耳を澄ましていた。洞穴の入り口はコスモの兵士が固めているはずだ。何かあれば合図をする取り決めになっていた。考え込んだヴィンセントに、ナナキの表情も曇った。
 「ねえ、ヴィンセント。ここに来るまでの通路に、いくつもいくつも上に抜ける縦穴があったよね……」
 「……なるほど。それだな」
 「どうする? ずいぶんたくさんあったし、ほら……。ここにも」
  ナナキはすぐ上を見上げた。天窓のように高い位置に、広い洞窟の中に自然光を導く丸い穴がぽっかりと開いていた。
 「おそらく、ここから来るだろうな」
 「あっちこっちから侵入されたら、防ぎきれないよ?」
 「セフィロスはともかく、意識の無いクラウドと、あの二人をどうするかだな」

 ───ピーッ!ピッ、ピーッ!

  洞穴の入り口から合図があったのはその時だった。鋭い警笛の音にセフィロスとレニー、エルヴィンが顔を上げた。
 「セフィロスっ!シンラの特殊部隊だよ!」
  ナナキが叫びながらセフィロスに駆け寄った。
 「ナナキ、この中で魔法を使うなよ。暴走する。クラウドとこの二人はひとたまりも無い」
 「わかった!……ヴィンセントーーー!!魔法はダメだよー!!」
 「ナナキ!こっちを頼む。私は入り口へ戻る!」
 「わっ!ダメだよー、ヴィンセントっ!!奴ら、途中の縦穴からもう入ってきているよ!」
  ナナキは心配そうな一瞥をクラウドの上に投げると、泉を飛び越えて通路の方へ戻った。

  クラウドを抱いたセフィロスはレニーとエルヴィンとともに広場の再奥まで後ずさった。
 「二人とも拳銃を?」
 「いえ、僕だけです。50口径リボルバーとホローポイント弾が50発です」
 「対モンスター系の装備だな。しかし50口径とは……、撃てるのか?」
 「腕力には自信がありますよ。でも、エルヴィンは……」
 「す、すみません。僕は武器を扱えなくて」
  セフィロスは「わかった」と頷くと、少し考え込んだ。
 (どうする?動けないクラウドと、非武装のエルヴィンを守りながら戦えるか?)
  レニーは軍人ではなく警官だという。洞窟の入り口からこちらへ迫りつつある軍靴の音を聞きながら、この男に人間は撃てないだろうと考えた。
 (とにかく、守りぬく)
  セフィロスはエルヴィンを座らせ、クラウドを抱きかかえさせた。
 「決して俺の前に出ないように。クラウドを、頼む」
  二人が緊張した顔で頷くのを見ると、くるりと背を向けた。

 

 ◇◇◇
 

  リッチーはコスタ・デル・ソル郊外にあるシンラ軍宿舎へ向かってのんびりと歩いていた。傍らでは一年先輩にあたるポールが、リュックに手を突っ込んで底にもぐり込んだ何かを探していた。
  この駐屯地に配属されてきたばかりのリッチーは、間近に障壁の見える風景にまだ慣れることができなかった。外に出るたびに「キレイだなあ」とか「田舎のかあさんに見せてあげたいなあ」とかつぶやいてしまう。そして、ふとこの障壁が倒れてきたらどうなるんだろうとか、いつか消えてしまうことがあるんだろうかと思いめぐらしながら歩くのだった。
 「先輩。なんか、今日は一段とユラユラ輝いてキレイですよー?」
 「いつものことじゃねーの?」
  ポールはここでの任務に就いてからすでに1年が過ぎている。いかに美しい光景であっても毎日のように眺めていればすっかり当たり前のことなのだろう。そういえば、彼が障壁を見上げるところなど見たことは無かった。彼の目下の興味は、週末ごとに行われるチョコボレースの配当に集中していた。『週刊チョコボレース』を引っ張りだすと、リュックを背負い直して赤鉛筆を取り出している。
 「だって、ほら。なんだか……いつもより、濃くなったり薄くなったり……。このまま消えてしまったりしませんかね?」
 「まさかよ。アレが消える日が来りゃー、俺たちもこののんびりした勤務じゃなくなるんだぜ? ホントにドンパチが始まってみろよ? どーするのさ」
 「先輩だって、本当の戦争経験は無いんでしたよね?」
 「入隊はお前と一年しかかわらねーんだよ。この自動小銃だって、訓練以外で撃ったこと無いしな。俺はやだねえ。殺し合いなんてさ」
 「ま、そりゃ、そうなんですけど、ちょっと見てくださいよ」
  二人は立ち止まって、東の空を見つめた。
  昨日のこの時間、この道を歩いたときと同じように、傾き始めた西からの陽光を浴びて煌めく地上のオーロラは、いくつも浮かんだ綿雲に突き立つようにそびえていた。
  だが───。
  見慣れた者にもそうで無い者にも区別無く叫び声をあげさせるほど、変化は急激に起こった。

  キーーーーン・・・・・

  辛うじて聞き取れるほどの高く鋭い音があたりの空気を震わせて耳を突き刺すや否や、虹色に輝く圧倒的な体積が津波のように崩れ落ちてきた。砂埃のような光の粒が先を争って二人の脇を通り過ぎ、駐屯地の方向へと吹き抜けていく。軍服も髪も強い風にあおられ、はたはたと翻った。
 (このままじゃ、二人ともアレに押しつぶされる!)
  リッチーが横を向くと、『週刊チョコボレース』を握りしめて石のように固まったポールがいた。
 「先輩!走って!」
  リッチーはポールの腕を掴むと、引きずるように駐屯地に向かって回れ右をした。視線だけはどうしても障壁の津波から逸らすことができなかった。いきおい、後ずさることになってしまいポールが尻餅をついた。
  巨大な光の津波はものすごい速度で二人に迫ってくる。
 (呑み込まれる!)
  リッチーはポールに引きずられるように路面に膝をつき、観念して目を閉じた。

  ゴォオオオオオ・・・・・

  耳をつんざくような轟音と、息が詰まるほどの風圧を顔面に感じたその一瞬あと、拍子抜けするような静寂が彼らを包んでいた。恐る恐る目を開けると、あたりには小さな光の粒が大量にフワフワと漂っているだけで、それも次第に消えようとしていた。
  見晴るかす彼方まで視界をおおっていた巨大障壁は跡形も無くなり、山脈の向こうにひときわ高くコレル山が姿を見せていた。

  蜂の巣をつついたような大騒ぎになった後、駐屯地が一応の平静を取り戻したのは深夜になってからだった。
  長年、コスモ連合軍とシンラ共和国軍との接触を阻んできた障壁が、あっけなく消滅した時には、すぐに攻め込まれるとか、いやこちらから攻め込むのだとかの憶測が乱れ飛び、兵士たちも下士官たちも浮き足だっていた。伝えられる命令は、緊急配備用の待機であったり、通常任務であったりと、錯綜し、駐屯地の上層部がいかに混乱しているかを示していた。
  とにかく宿舎に帰ってきたリッチーとポールも、したがうべき的確な指示を得られないままに夜を迎えてしまった。消灯時間を過ぎてうわさ話に新味が無くなる頃になっても、まだベッドの中で寝返りを繰り返していた。
  長年にわたり、両国間に不自然な均衡をもたらしてきた障壁を失った西大陸は、今、不気味な静寂に包まれていた。

 

 

『In A Silent Way』 第一部 五章 魔晄の泉(3) 2006.10.11 up

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